2005年05月06日

physical awareness : 感性の論理へ

bacon_study3.JPG 人の死は不可視だ。当然の話だが、それゆえテレビ映像が映し出せるのはもっぱら周囲を彩る人間たちのいとなみで、その人の死そのものではありえない。その人の生前の振る舞いをVTRで流しても、たとえ棺桶のなかを映し出しても、死そのものは置き去りにされ、じゅうぶんに語られることもなく、画面は次の映像へと足早に切り替わる。

 カトリックの信者ではなく、これまで彼に対して深い関心を覚えたこともない私にとって、法王ヨハネ・パウロ2世の死はその始めから最後まで、そのようなものとして感じられた。メディアが主として伝えるのはむしろ彼の死を以って進行する政治であり、死者ではなく息づく生者のいとなみであり、
現に映し出されるのは各界の要人たちの動向であり、さかんに報じられるのは後継者選定の行方であった。

 だがその映像の端々に映り込む、バチカンとローマに集った400万の人々。ただその場にいることが意味をもつのであるならば、彼らの心情には共感を覚える。この法王を芯におく象徴体系が、多くの部分で彼らの精神を深く規定しえていたのだろう。そして法王こそが現し身の父であり指針であった彼らにとって、その死は言語の消失にも近い本質的な欠落として、普段の暮らしをも差しおいて祈るべき忌事として降りかかったとしても、そうした在りかたには他に代え難い価値がある。それをもたない私には、そのように思えた。


 雨が降っている。昼から降り続くこの雨の立てる音に、雑事を片づけこうしてキーボードを打ちつつも、ずっと耳を傾け続けている。

 いま私の暮している11階のこの部屋は、「コ」の字型に立地する高層マンションの外構側を向いており、南側に張り出た小さなベランダへと通じるガラス扉の外側では、上階から降りてくる雨水用の排水管が、水流の落ちる音や、水滴の撥ねる音を不連続に立て続けている。その音を前景とすれば、ややボリュームを下げた後景として流れ込んでくる通りをゆく車の音は多分に人工的ではあるにしても、道路上の水分をタイヤが弾いていくとき特有の濁音のささやきを微分的に敷き詰めたような調べには、晴天のアスファルトをゆく車の走行音にはない優しさと穏やかさがある。

 この生活のなかでは、それらはもしかしたら最も気持ちの落ち着く音なのかもしれないとも考える。そして排水管の立てる音に安らぎを覚えるこうした環境をべつだん貧しいとも、とりたてて恵まれているとも感じてはこなかった。この私という人間の抱える感性など、だからその程度のものだとは言えるだろう。


 金沢から帰ってきたあと、今年前半の一つの軸として、聖書と日本国憲法の精読を考えた。聖書は己の信仰の問題からではなく、憲法は九条を焦眉の問題とするのではないところから、いくつかの文献をとり揃え、まず旧約聖書から読み出した。だからヨハネ・パウロ2世の逝去や、この数週とみに加熱してきた現行憲法の改正論議にまつわる報道は、他に比べても気になることが多かった。

 マスメディアはそれ自体、一つの現実を形成する。すくなくとも自らが部分的には、メディアによって架構された現実を生きているということを私は認めざるをえない。聖書と憲法に見い出したのはこれと同様の問題で、これまで一度とて通読したことがないにもかかわらず、そのどちらにも無意識のうちに自身が規定されていることを、その折々に感じずにはいられなかった。

 それらすべてを、言うならば感性の問題として考える。私の主たる関心はそこにある。
 それゆえ芸大入学以後知り合った学生や教官の幾らかがそうである“らしい”ようには、無謬の感性というものに私は依拠できそうにない。こう感じたからこうしたい、したくない、それがいい、それは良くない、という行動化の回路の前に、なぜそう感じる自身の感性の在り様に疑問符を置こうとしないのか、ときに不思議でならなくなる。そこで聖書や憲法を持ち出すことのぎこちなさを勘違いだと嗤われようとそんなもの、知ったことか。

cattelan2.JPG 自らの感性の純粋性を信じるのはかまわない。だがもとより論拠をもたないそれが実体化して振る舞われるとき、そこには他者を本質的に損なう危険が必ず生じる。生じなければフェイクである。そして無自覚にそれをやるから、ひとりよがりで馬鹿みたいに薄っぺらい表現しかできなくなる。感性は大事だということと、感性は大事だと言うことの違いを意識しないから、いつになっても表現行為と自慰行為の区別がつかず、独創性を志向することの凡庸さが意味するものに気がつかない。

 そしてそれに気づかないことが結局は自らを疎外させてしまうところに、聖書を引用して戦争を始める米国政府や、自閉に傾きつつある改憲論議にも通底する闇が口をあけている。かもしれないね、くらいには賛同してもそのことを“自分の”問題として捉えない人間がいるのは良いが、すこし無闇に多すぎる。

 
 法王の逝去をめぐるテレビや新聞の報道にふれて、鮮やかに思い出したことが一つある。1997年9月5日、その半月前に実際に会っていたあるシスターの死が、私が成田に帰り着いたまさにその日に、メディアを通じて世界中に報じられたのだ。彼女の名はアグネス・ゴンジャ・ボジャジュ(Agnes Gonxha Bojaxhiu)、通称 マザー・テレサ、享年87歳。
 なぜそのことを思い出したのかといえば、報道で伝えられる葬儀の模様に似たところが多かったからなのだけど、それについては項を改めようと思う。聖書や憲法についても、近いうちにまた書くことになるだろう。

 いまある状況をどう捉え、そのなかをどう切り抜けていくのかは、環境にも因るが自分にも拠っている。自らを環境の産物と捉えればすべては環境に帰し、すべてを自身に帰すれば自身に拠る。要は見方の問題で、見方をどのように変えたところで、その芯に変化はない。私がいま希求するのはその芯の変化であるのだから、見方に拘泥すべきではない。
 ならば芯とは何かを考える。もとよりそんなものが存在するのかと問うてみる。愚問だなとすぐさま直観できるものがある。存在しないのかもしれない。だからこそ、杭を打つのだ。それが茫漠として不定形の流れのようなものならそれら打ち込む杭により、変わる流れもあるだろう。もとより存在しないのならそれらの杭こそを、己の芯とすれば良い。
 それはそれで一つの見方に他ならないとはしても、自らの自由を志向するとは私の場合、そうした見方に発している。いまこの場所をどう捉えるか。天国か地獄か。享楽に充ちた桃源郷かどこまでも平坦な戦場か。いずれにしても、最終的に私が志すのは書くことだ。己の不器用さを認めるならば他者に通じてある生とは私の場合、それ以外にはありえない。

 マザー・テレサの元を初めて訪れたのは1995年の冬で、物静かだが透徹したその眼差しはそれから二年のちに亡くなることを予想しえないほどに力強いものだった。十年たった今になってもまだわからないことがある。ここで言葉にすることが誰かにとって意味をもつとも、それができるとも思えないのだけれども、ともあれその謎をかけられた瞬間が、残りの私の人生をすべて合わせた分よりもきっとすこし長いものになるということを、十代の私はまさにその瞬間、鮮烈に直観させられたようにも思う。

 彼女は私の両の眼のこちら側に、私を、ではなく、私たちを見ていたのかもしれない、とも考える。確かな答えを得ることはおそらくもうないだろう。ただ、いまはそのように考える。そう考えられることが私たちにとって、あるいは私にとって、これから何をもたらすことになるのだろうか。


 雨は少しずつ勢いを増している。水滴の排水管を打つ音の輪郭がしだいに明瞭になってくる。

 この四、五日を、私はひとりで過ごしている。
 ひとりでいることの良さの一つは、内面に生じる混沌に制御がきかなくなることだ。そういうときはできるだけ雑事に紛れず、荒れ狂う混乱のなかに浸ることの方を選ぶ。抱える不安は孤独と恐怖を生み、悪夢がそれらを倍加する。わだかまりは怒りとなり、悲しみが絶望となり、煩悩や生理が身を引き裂くナイフとなって次々に襲いかかってくる。なべて愛しき畏友たちよ。




※画像について
 画像(上):フランシス・ベーコン[Francis Bacon]<Study after Velazquez's Portrait of Pope Innocent X>[1953]
 画像(下):マウリツィオ・カテラン[Maurizio Cattelan]<La Nona Ora (The Ninth Hour)>[1999]

 作品の質的水準およびその知名度において、どちらも両芸術家における代表作の一。私は前者を2003年11月にウィーン美術史博物館で、後者を2001年9月にヴェネチア・ビエンナーレ会場で観た。ヨハネ・パウロ2世の逝去報道から直接的に連想された現代美術作品を取り上げてみたまでで、作品自体への詳しい言及はこじつけがましい観もあり、控える。ただしベーコン作品については上記作品タイトルおよび制作年からわかる通り、ヨハネ・パウロ2世をモデルとはしないことを付言しておく。だがパーキンソン病に苦しむ自身の姿を敢えて信者の面前に晒し続けた晩年の彼の気魂にこそ、この類稀な叫びの表現が似つかわしく映るのは私だけではないだろう。極私的には今回関連づけられたことで、両作品の重みが幾らか増した。

※別項記事[physical awareness ll : 透き徹る事故]へ続きます。

 
posted by kushán at 23:57| Comment(4) | TrackBack(1) | 美術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
祝再開〜ヽ(^o^)丿

カントが、「ゲーテが『五感は誤らない』と言ったのは全く正しい。でもそれは感性というのが全く判断しないからだ」と書いているけど、それはその通りかな、と思います。カントはそうした感性と根源的な判断を分離することはできない、と考えていたみたいだけど、はてさて。ゲーテにはできたのかしらん。

聖書、私もきちんと読んでないです。時間がとれたらゆっくり読みたい。また色々教えてください。


Posted by さお at 2005年05月07日 10:48
さおさま、さっそくのコメント感謝です。

 感性については、実際的にもその言い方で良いと私も思います。
 ただ表現者自身による発話上の「感性」の語は多くの場合、二字の漢字で構成された言葉以上の重みを持たない。

 私が御門違いに感じるのは感性が「感性」としてアイデンティティの皮を被ったエクスキューズの肥やしにされてしまうときで、「アーティストは感性が大事」とか思い発言すること自体は実のところ少しも感性的な所作ではなく、むしろ論理に依存しているゆえの言辞に思えてならない。それも内実に欠けた、とても安っぽい論理に、です。庇護者に対して子供のこねる、駄々のような。

 某所で画像解説コメントで付けると言ったけれども、上記本文の末尾に薄文字で付記しました。
Posted by kushán at 2005年05月07日 13:01
こんばんは。先日A-thingsでお会いしたsaiです(そば屋で端に坐っていたメガネです。覚えていらっしゃるでしょうか)。ハンドルネームで失礼します。

私は美術の分野に来て2年とちょっとですが、一番戸惑ったのが言語的行為と感性との間の差異でした。何かを感じて、それを「こう感じた」と言葉にした瞬間に、私が感じたものと決定的な隔絶が生じてしまう。多分「描写」と「告白」とは違うからなのかもしれません。どんなことを感じたかを記述することと、心の琴線に触れた理由を語ることとはかなり違う。言語は表現の一形式である以上、形骸化することは避けられないように思います。でも、それでも私は書き続けたい。書き続けることで形骸化を逃れられるかもしれない、と。

まず感じることの理由を「問う」こと、そして自分が記述した言葉をさらに問い直してみることが大事だと思います。私もつい疎かにしてしまうことなんですけどね。


ベーコンの法王は04年の春にスイスで見ましたよ。多分ウィーンの展覧会がスイスに巡回したんだと思います。論文で扱ったこともあって、ベーコンは結構思い入れがあります。
それではまた。
Posted by at 2005年05月22日 02:03
saiさまこんにちは。コメント感謝です。覚えています。でもメガネ率がとても高かったので、、、たぶん私とはほぼ対角線上にいらした方ですね。

 おおよそ印象批評(=どんなことを感じたかを記述すること)とメタ批評(≒心の琴線に触れた理由を語ること)の別に近いことを仰っていると考えてよろしいでしょうか。あるいは「私が感じたもの」を自立的に捉えるなら、シニフィアン/シニフィエを巡る問題軸にも近いのでしょうか。
 個人的には、個としての感じる主体の在りようを無闇に自明視したかのような発話/表現が為されるところにそもそもの疑いを感じています。

 もっとも私が「主たる関心」としてここで述べたのはおそらくお分かりの通りそれとは少し異なるものです。たとえば「感性」の語に関して言うならば、その語が含む受動性と能動性の関係、のようなものについて言っています。

 「芸術家の感性」として語られる感性のうちには、本来の語義に沿った受け身的性質を超えた能動性が含意されているように思います。だとすればそこに純粋性や無垢さを求めることに大きな過ちが存するのは言うまでもなく自明のこと、のように映るし、そうでなくては芸術が自律的展開を始めた理由がないとも考えるのです。
 みるからに乱暴な理屈ですが、この項は続けますので、よろしければお付き合いのうえさらなる突っ込みをいただければ幸いです。
Posted by kushán at 2005年05月22日 18:54
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