2005年02月03日

森達也 “A” (日'98) VHS

A.jpg かつて北朝鮮から拉致被害者5名が帰国する直前に、メディアがまくし立てた不安。マインドコントールされた彼らが降り立つ飛行機のタラップで、人工の笑顔をひきつらせるのではないかという恐怖。
 かつてイラクで日本人外交官2名が殺されたときここぞとばかりに叫ばれた、政権与党への批判、外務省への無数の嫌疑。そこで置き去りにされた2名の「命」それ自体。徹底的に無視され続け忘れ去られたイラク人運転手1名の「死」そのもの。

 森達也のドキュメンタリー作品“A”が、上祐逮捕後のオウム真理教における広報役を担う荒木浩の
日常を通して映し出す。エサに群がる獣のように獰猛なテレビ各局の取材クルーたち、堂々と不当逮捕を試みる刑事たち、中身の無い同調圧力を嵩に排他性をむき出しにする地域住民たちの、どこまでも浅薄にうごめく表情筋の連なりのおぞましさ。渦中にあって、次第にやつれ擦り切れていきなお教団を離れずにいる信者たちが時折放つ、外部社会にその所在を明かすことはすでに諦めているのだろう暖かい人間臭さ。
 生活をつかさどる幾つかの重要な論理が転倒して見えることを除くなら、荒木浩の日常を生きる姿勢、語る信念はむしろ真っ当なものである。虚飾にまみれた俗事を忌避する思考すら、誰しもが人生のある時期抱えて当然の、至極真面目なものにしか映らない。そして何より、教団とそこで生きざるを得ない仲間たちを支えるという役割に、決して安住し切ってはいない。しばらく寝かせて考えてみたけれど、どう考えてもこの人は、根っこの部分で正常だ。彼が悪で、この国の大半が悪でないと言えるならそれはなぜなのか。たとえば公判も始まらぬうちから、周りの人に迷惑をかけて云々と責め立てるヒステリックな近所の主婦らしき人物は、自らの生活が周囲に強いているだろう犠牲の在り処を、どれだけ自覚しているというのだろうか。自らの外部を目を向け、そのことの痛みを十全と自覚しているのであれば、ああも硬直した正義心を満面に湛えることなど、本当にできるものなのか。登場する刑事たちや記者たちとも同様に、他者へと向けてああも容易く高みより裁き切った視線を向けられるものなのか。


 それはそうとこの文章を書き出す前、不思議なことを体験した。未明の暗いこの部屋で、自分の体が逆さに吊るされ、回転する。抗おうとする試みはすべて無為に終わるのだけれども、ある瞬間ふと気がつくと横たえられた体は掛け布団に深く埋まっていて、目蓋の裏側にはほんの一部だけ、色鮮やかな幻視の感覚が生じている。妙な夢を見たのだろう、と言分けてしまえばそれまでの話だが、倒転を繰り返すさなかに触れた板張りの床のひんやりとした木目や板のつなぎ目のへこみ具合、灯りをつけようとして触れた卓上ランプのプラスティックの丸いスイッチに、すべり止めのため細く刻まれた溝の硬い触感、どうにも生々しくこの指先に残っている。夢であるならこうした悪夢をみたあとの束の間を訪れる、日常感覚からの断絶を伴うこの冷たく密やかな孤独の明晰さは。


→[次回記事“A2”]へ続く


“A” 森達也 (dr) / 日本 / 1998 / 135min / レンタルVHS(2002発売)
posted by kushán at 07:23| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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